憲法を守るには2021年11月03日 10:41

憲法記念日の空

 文化の日でお休みですね。明治天皇の誕生日。新憲法公布の日。
私は、いつもお休み中ですが、、、
いつもツイッターで内田樹先生のツイートを見ていますが、今日の説も的を射ていると思いました。

憲法発布から75年。
先日の選挙で、『憲法を変えたい、変えて戦争のできる国にしたい』
という人が随分増えた! と驚きました。

どうしてなのか??
私と同年齢の内田先生の意見は、私の父親の生前の言動ともあいまって、とても納得しました。
翻って、私は、どのように子供や孫たちに憲法の話ができるか、
大きな宿題だと思いました。以下、内田先生のブログから全文です。


憲法の話(長いです)
2021-11-03 mercredi
もうすぐ出るSB新書の『戦後民主主義に僕から一票』には憲法について過去にブログに載せた文章がいくつか再録されている。これもその一つ。ただし、新書化に際して大幅に加筆したので、オリジナルの2倍くらいの量になっている。今日は11月3日。日本国憲法公布から75年経った。改めて憲法について考えたい。

 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。
それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。
 日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた餅」である。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。
 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していない、というのが私の考えだ。
 
 もう一つ長期的な国民的課題がある。それは国家主権の回復ということである。
 日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。
その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標である。これはおそらく100年がかりの事業となると思う。
これもまた日本国民が引き受けなければならない重い十字架である。
 そして、国家主権の回復という国民的事業を一歩ずつでも前に進めるためには、「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認めるところから始めなければならない。
 日本はアメリカの属国である。
安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。この事実をまず国民的に認識するところから始めなければいけない。
 けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。
すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。この重篤な病から日本人が目覚めるまで、どれくらいの時間が要るのか、私には予測できない。恐ろしく長い時間がかかることは間違いない。

 最初に「憲法は空語である」という考え方について、少しご説明を申し上げておきたい。
 いろいろなところから憲法についての講演に呼ばれる。もちろん、呼んでくれるのはどこも護憲派の方たちである。護憲派の集会へ行くと、客席の年齢層が高い。平均年齢はおそらく70歳くらいだと思う。若い人はまず見かけることがない。日頃から、駅頭でビラを撒いている方たちもそうだ。地域の市民たちが文字通り「老骨に鞭打つ」という感じで情宣活動をしたり、護憲派集会の会場設営の力仕事をされている。若い人が来ない。どうしてこんな老人ばっかりなんだろう。どうして日本の護憲派の運動は若い人に広がらないのか。
 それはどうやら若い人たちはむしろ改憲派の言説の方にある種のリアリティーを感じているかららしい。改憲派の言葉の方に生々しさを感じる。そして、護憲派の言説は「空疎」だという印象を持っている。たぶん、そうなのだと思う。
だが、どうして護憲派の言説にはリアリティーがないのか。
 
 私は1950年生まれである。だから、私にとって日本国憲法はリアルである。それを「空疎」だと思ったことがない。憲法は私にとって山や川のような自然物と同じようなものとして、生まれた時からそこにあった。良いも悪いもない。自然物についてその良否を語らないのと同じだ。「憲法を護ろう」というのは、私たちの世代にとっては、当たり前のことであるわけだ。それは「大気を守ろう」とか「海洋を守ろう」とかいうのとほとんど変わらないくらい自然な主張に思えていた。
 だから、護憲派の人たちに60代、70代の人が多いのは当然なのである。この世代にとっては憲法には自然物としてのリアリティーがあるからだ。でも、若い世代は憲法にそのようなリアリティーを感じない。同じ文言であるにもかかわらず、育った年齢によって、その文言のリアリティーにこれほどの差が出るのだ。この差はどうして生まれたのか?
 この差は「戦中派の人たちが身近にいたか、いなかったのか」という先行世代との関わりの違いから生まれたと私は思っている。
 戦中派というと、われわれの世代では、親であったり、教師であったりした人たちだ。この人たちの憲法観が私たちの世代の憲法への考え方を決定づけた。戦中派の憲法理解が、戦後日本人の憲法への関わりを決定的に規定した。というのが、私の仮説である。
 私自身は、戦中派であるところの両親や教師たちやから、「とにかく日本国憲法は素晴らしいものだ」ということを繰り返し聞かされてきた。そして、「この憲法は素晴らしいものだ」と言う時に彼らが語る言葉にはある種の重々しさがあった。
「声涙ともに下る」実感があった。こんなよい憲法の下で育つことができて、お前たちはほんとうに幸せだ、と深い確信をこめて彼らは語った。その言葉に嘘はなかったと思う。
 私たちが子どもの頃、天皇制を批判する人は今よりはるかに多かった。もちろん学校の先生たちの中にもいた。天皇制について、はっきり廃絶すべきだと言い切る先生たちは小学校中学校に何人もいた。「天ちゃん」というような侮蔑的な言葉遣いで天皇を呼ぶ人もいた。それを咎める人もいなかった。でも、憲法について批判的なことを言う大人は私が子どもの頃には周りにはいなかった。 
 私の世代には名前に「憲」という字が入っている男子がたくさんいる。今はもうほとんどいないと思うが、1946年の憲法公布から10年間ぐらいは、「憲男」とか「憲子」という名前はそれほど珍しくなかった。この時期だけに特徴的な命名だったと思う。それだけ親の世代が憲法に多くのものを期待していたということである。
 だから、「改憲論」というものを私はずいぶん後年になるまで目にしたことがなかった。たしかに、自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたはずだが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたということは、ずいぶん後になるまでなかった。
特に1960年代末から70年にかけて、私が高校生大学生の頃は、世界的な若者の叛乱の時代である。そんな時期に憲法が話題になるはずがない。活動家たちはどうやってブルジョワ民主制を打倒して革命をするかという話をしていたのである。ブルジョワ憲法の良否が政治的主題になるはずがない。「憲法を護持すべきか、改正すべきか」が喫緊の政治的論件だと主張するような人間に私はその時代に一人も会ったことがない。
 つまり、私たちの世代は、子どもの頃は憲法を自然物だと思い込んでおり、学生のころは憲法のことは眼中になく、いずれにせよ、憲法が政治的主題であったことはなかったのである。
 ところが、ある時期から改憲論が政治的論件としてせりあがってきた。そう言われてみてはじめて「憲法を護持すべきか、改正すべきか」ということが一つの問題として存在するということを知ったのである。
 私は「憲法は自然物」と思い込んで育ってきた世代であるから、むろん「生まれつきの護憲派」である。しかし、改めて護憲論とされる人々の言葉を読むと、なんだかずいぶん「空疎」に思えた。それに比すと、改憲論には独特の生々しさと激しさがあった。憲法に対するただならぬ憎しみを感じた。これでは憲法に対してニュートラルな立場にある人たちは改憲論の方に引きずられるかもしれないと思った。
 そこで、「生まれつき護憲派」の立場から、どうして護憲論にはリアリティーがないのかということを考えた。
 考えたらすぐにわかった。
 日本国憲法を貫く理念は素晴らしいものであるが、これは日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない。
戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜されたものである。
日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで転がり込んできたものである。人からもらったものを「護る」という仕事なのだから、あまり気合が入らないのも無理はない。
 私だってもちろん憲法が市民革命を通じて獲得されたものではないということは歴史的事実としては知っていた。にもかかわらず、それを「たいへんに困ったことだ」と実感したことはなかった。
それは戦中派の人たちが憲法の制定過程に関してほぼ完全に沈黙していたからだ。こちらは子どもであるから、大人が決して話題にしないことについて、「それこそが問題なのだ」というようなことは言わないし、考えもしない。
大人たちはうすうす知っていたのだろうが、日本政府とGHQとの間で、どういう駆け引きがあって、どういう文言の修正があって、現行憲法が制定されることになったのか、私たち子ども相手には何も説明がなかった。
 
 戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。
一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。
 それは戦争経験文学の欠如というかたちでも現れていると思う。以前に高橋源一郎さんに教えてもらったのだが、敗戦直後にはほとんど見るべき文学的達成はない。戦争から帰ってきた男たちが戦争と軍隊について書き出した最も早い例が吉田満の『戦艦大和ノ最期』で、これは46年には書き上げられていた。大岡昇平の『俘虜記』が48年。50年代になってからは、野間宏の『真空地帯』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』といった「戦争文学」の代表作が次々と出てくるが、加害経験について詳細にわたって記述した作品は私の世代は少年時代についに見ることがなかった。
 ただ、私は戦中派の人たちのこの沈黙を倫理的に断罪することにはためらいがある。かれらの沈黙が善意に基づいたものであることが分かるからだ。
 ひどい時代だったのだ。
ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。
たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思う。
子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。
子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。
ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。
戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。
戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。
それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。たぶんそういうふうに考えていたのではないかと思う。
戦争の罪も穢れも、自分たちの世代だけで引き受けて、その有罪性を次世代に先送りするのは止めよう。
1945年 8月15日以降に生まれた子どもたちは、新しい憲法の下で、市民的な権利を豊かに享受して、戦争の責任から完全に免罪された存在として生きればいい。その無垢な世代に日本の希望を託そう。そういうふうに戦争を経験した世代は思っていたのではないか。そうでなければ、戦中派の戦争の加害体験についての、あの組織的な沈黙と、憲法に対する手放しの信頼は説明が難しい。
 
 例えば私の父親がどういう人間であるか、私はよく知っているつもりでいる。筋目の通った人だったし、倫理的にもきちんとした人だったから、彼が戦争中にそれほどひどいことをしたとは思わない。父は10代の終わりから30代の半ばまで大陸に十数年いたが、戦争中に中国で何をしていたのかは家族にさえ一言も言わなかった。北京の冬が寒かったとか、家のレコードコレクションが何千枚あったかとかいう戦争とは無関係な個人的回想も、ある時期から後はぱたりと口にしなくなった。戦争中についての出来事は語らないというのは、あの世代の人たちの暗黙の同意事項だったのではないかという気がする。
 自分たちの戦争犯罪を隠蔽するとか、あるいは戦争責任を回避するといった利己的な動機もあったかもしれない。しかし、もっと強い動機は、戦後世代をイノセントな状態で育ててあげたいということだったと私は思う。
そういう穢れから隔離された、清らかな、戦後民主主義の恩恵をゆたかに享受する資格のある市民として子どもたちを育てること、それこそが日本の再生だ。
この子たちが日本の未来を担っていくのだ。そういう希望を託されてきたという感覚が私にはある。
それは私と同年代の人は多分同意してくれると思うのである。
 私が小学校5年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいだった。もちろん戦争経験がある。私はその先生が大好きだったので、いつもまつわりついていた。何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と答えた。で、私がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」と聞いたら、先生は顔面蒼白になった。
聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかった。
その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えている。
大人たちにはうかつに戦争のことを聞いてはいけないという壁のようなものを感じた。
 
 戦争経験についての世代的な沈黙というのと対になるかたちで憲法制定過程についての沈黙がある。
これも私は子どもの頃から聞いたことがない。学校の教師も、親たちも、近所の大人たちも、憲法制定過程について、どういう制定過程でこの憲法が出来たのかという話を私たちにはしてくれたことがなかった。
大人たちがそれについて話しているのをかたわらで聴いた記憶もない。憲法制定は親たち教師たちの年齢であれば、リアルタイムで目の前で起きたことだ。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、だいたいのことは知っていたはずである。
憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていたはずである。でも、子どもたちにはそれを伝えなかった。
 改憲派が随分あとになってから「押し付け憲法」ということを言い出した時に私は実はびっくりした。子どもの時はそんなこと考えたこともなかったからだ。憲法は日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかについて、あれこれの説が憲法制定時点から飛び交っていたということを知ったのは、恥ずかしながらずいぶん大人になってからである。
 最初に結婚した女性の父親は平野三郎という人で、その当時は岐阜県知事だったが、その前は自民党の衆議院議員だった。その岳父が、当時はもう70歳を過ぎていたが、酔うと私を呼んで日本国憲法制定秘話を語ってくれた。
私が日本国憲法の制定にはみんなが知らない秘密があるという話を個人的に聴いたのは彼からが最初だった。25歳を過ぎてからの話である。
岳父は幣原喜重郎の秘書のような仕事をしていたので、死の床で幣原喜重郎が語ったことを、後に国会の憲法調査会で証言している。九条二項を思いついてマッカーサーに進言したのは幣原さんだと岳父は主張する。憲法九条二項は日本人が自分で考えたんだ。押し付けられたものじゃないとテーブルを叩きながら語った。
 そういう話を聞いて、どうしてこういう事実がもっとオープンに議論されないのか不思議に思った。
憲法制定過程については、実にいろいろな説が語られている。「藪の中」なのだ。でも、憲法というのは国のかたちの根幹を決定するものである。その制定過程に関して諸説があるというのはいくらなんでもまずい。歴史的事実として確定する必要がある。国民全体として共有できる歴史的な事実を確定して、それ以上真偽について議論する必要はないということにしないといけないと思う。しかし、現代日本では、憲法制定過程に関して、「これだけは国民が事実関係に関しては争わない」ということで共有できるベースがない。
 なぜこんなことが起きたのか。それはリアルタイムで憲法制定過程を見ていたはずの世代の人たちが、それについて集団的に証言してくれなかったからだ。知っていることを言わないまま、沈黙したまま死んでしまったからだ。
 実際に戦争で多く死んだのは明治末年から昭和初年にかけて生まれた世代だ。この戦争を現場で経験したこの人たちは復員してきたあと、結婚して、家庭を作って、市民として生活を始めた。
当然、これからの日本はどうなるんだろうということに興味をもってみつめていた。日本の行く末がどうなるか心から案じていたと思う。国のかたちを決める憲法については、その制定過程についても、日々どうなっているんだろうと目を広げて、日々話し合っていたはずである。でも、その過程で、「では、憲法はこういうふうに制定されたという『話』を国民的合意として採用しよう」ということをしなかった。
 日本国憲法には前文の前に「上諭」というものが付いているが、私はそれをずっと知らなかった。上諭の主語が「朕」だということも知らなかった。でも、日本国憲法は「朕」が「公布」している。天皇陛下が「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法73条による帝国議会の議決を経て」日本国憲法を公布している。日本国憲法を公布した主体は天皇なのだ。ちゃんと「御名御璽」が付いている。
でも、私たちが憲法について教えられた時には、その上諭が削除されたかたちで与えられた。どういう法理に基づいてこの憲法が制定されたかという「額縁」が外されて、テキストだけが与えられた。
 憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思う。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的な合意があるべきだと思う。その合意がなければ、憲法の個別的条項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意がない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されている。
 憲法についての試案があったとか、マッカーサー三原則があったとか、GHQの民生局が草案を作って、11日間で草案を作ったとか、さまざまな説があり、それについていちいちそれは違うという反論がある。どれかが真実なのかがわからない。
「これが出発すべき歴史的事実」として国民的に共有されているものがない。
 憲法とは、われわれの国の最高法規である。その最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。
マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然だ。
でも、日本国憲法については、それがない。制定過程が隠蔽されたしかたで私たち戦後世代に憲法は与えられた。
それをなんの疑いもなく、天から降ってきた厳然たる自然物のように受け止めてきたのが今や70にならんとしている私らの世代の人間なのだ。改憲派の人たちに、「こんなもの押し付けられた憲法だ」、「こんなものはGHQの作文だ」と言われるとびっくりしてしまう。
自然物だと思っていたものがこれは「舞台の書き割り」のようなものだと言われたわけなのだから。
 でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。
「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。
私には彼らの気持ちがわかる気がする。もうみんな死んでしまった。父も岳父も亡くなった。大事なことを言い残したまま死んでしまった。だから、私らはそれに関しては想像力で補うしかない。

 護憲論を批判するのは簡単である。こんなもの、ただの空語じゃないか、「絵に描いた餅」じゃないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々しい嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなのだ。
 憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてあるが、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制である。
憲法が公布された1946年の11月3日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していなかったのだから。
公布前日の11月2日までは、列島に存在したのは大日本帝国であり、そこに暮らしていたのは「大日本帝国臣民」であって、「日本国国民」などというものはどこにもいなかった。
どこにもいなかったものが憲法制定の主語になっている。
「この主語の『日本国民』というのは、誰だ?」と切り立てられたら、答えようがない。
 日本国憲法を制定した国民主体は存在しない。
存在しない「日本国国民」が制定した憲法であるというのが日本国憲法の根源的な脆弱性である。
 
 と言っておいてすぐに前言撤回するのもどうかと思うが、実は世の中の宣言というのは、多かれ少なかれ「そういうもの」なのだ。宣言に込められている内容はおおかたが非現実であるし、宣言している当の主体自体だって、どれほど現実的なものであるかは疑わしい。
 例えば1776年公布のアメリカ独立宣言は「万人は平等に創造された」と謳っているが、実際にはそれから後も奴隷制度は続いた。
奴隷解放宣言の発令は1862年であり、独立宣言から100年近く経っている。むろん、奴隷解放宣言で人種差別が終わったわけではない。
公民権法が制定されたのは1964年。独立宣言から200年経っている。そして、もちろん今のアメリカに人種差別がなくなったわけではない。人種差別は厳然として存在している。
しかし、「独立宣言に書いてあることとアメリカの現状が違うから、現実に合わせて独立宣言を書き換えよう」と主張するアメリカ人はいない。
社会のあるべき姿を掲げた宣言と現実との間に乖離がある場合は、宣言を優先させる。それが世界標準なのだ。
 日本は違う。宣言と現実が乖離している場合は、現実に合わせて宣言を書き換えろということを堂々と言い立てる人たちがいる。それも政権の座にいる。
 世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」である。
宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合も、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけではない。
自分もまた宣言の起草主体の一人であるという自覚を持つ「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令される。
それが宣言の遂行的性格である。
 それでいいのだと思う。
日本国憲法制定時点では、「日本国民」なるものは現実には存在しなかった。でも、そこで掲げられた理念が善きものであるということが世の常識になり、「憲法を起草してくれ」と誰かに頼まれたら、すらすらとこれと同じ憲法を起草することができるような人々が輩出するなら、その時「日本国民」は空語ではなく、はじめて実体を持ったことになる。
 この憲法を自力で書き上げられるような国民めざして自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題であるべきだったのだ。
ただ、そのためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にこれからならなければならない」と自覚することが必要だった。
 護憲論の弱さはそこにある。
 護憲派はそのようには課題を立てなかった。
そうではなくて、「日本国民は存在する」「私たちは憲法制定の主体だ」というところから話を始めてしまった。
それが最初のボタンの掛け違えだったと思う。
 たしかに憲法前文には、「日本国民」が集まって、熟議を凝らした末に、衆知を集めてこの憲法を制定したと書いてある。しかし、そういう歴史的事実はない。
戦争に負けたのだから、そういう事実がなかったことは仕方がない。でも、いずれ衆知を集めて、このような憲法を自力で起草できるような国民主体として自己形成することを未来の目標に掲げるということはできたはずだし、しなければならなかったはずだ。
しかし、戦後の日本人たちはそれをしなかった。
「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。
 日本国民が憲法を制定したわけではないという誰もが知っている事実を「なかったこと」にしたせいで、それ以後の護憲論・改憲論の「ねじれ」は生まれた。
 私たちは憲法制定の主体ではないと、素直に認めればよかったのだ。たしかに日本国憲法は日本国民が衆知を集めて起草したものではないが、仮にもう一度憲法制定のチャンスを与えられたら、自発的にこれと同じ憲法を自力で書けるような日本国民へと自己形成することはできる。それを遂行的な目標として掲げることはできたはずである。そうすべきだったと思う。
 もちろん、戦中派の人たちの中にも、それに似たことを考えた人はいたと思う。でも、それは多数意見にはならなかった。
たぶん、そんな困難な国民的課題を引き受けるだけの気力・体力がなかったのだと思う。
日本は負け過ぎた。再起できなくくらいに負けた。自力で敗戦の総括ができないくらいに、戦争責任の追及ができないくらいに負けた。国土は焦土と化し、明日の食べ物さえままならなかった。
その状況で、「あるべき日本国民」に向けて、自己陶冶の努力をしようということを喫緊の国民的課題に掲げることはたぶん無理だったのだ。それよりはまず雨露をしのぎ、飢えを満たし、死者たちを弔い、傷ついた人たちを癒し、子どもたちを学校にやることの方が優先する。
 
 そうやって何年か経った。憲法は日本の風土に根づき始めたように見えた。戦後に生まれた子どもたちは憲法を「自然物」のように素直に受け入れ、民主主義社会の空気を呼吸している。
それを見て、戦中派の人たちはこう考えた。後はこの子たちに任せておけばいいじゃないか。この子たちは「生まれつきの国民主体」なのだ。この子たちに「好きに憲法を制定していいよ」と言ったら、きっとすらすらと今あるような憲法を起草するに違いない。
だったら、今さら「日本国民は存在しない」「私たちは憲法制定の主体ではない」などという痛ましい事実をカミングアウトするには及ばない。黙っていても、「日本国民」は育っている。もう大丈夫だ。あと数十年も経てば、列島住民のほとんどが「憲法制定の主体」たりうる日本国民になっているはずだ、と。たぶんそういうふうに考えたのだと思う。
そうでなければ、戦中派世代の制憲過程についての集団的な沈黙は説明できない。

 でも、まことに残念ながら、歴史は彼らが予想したようには推移しなかった。
 私たちは戦後民主主義からの気前のよい権限委譲を享受するだけ享受したあげくに、あっさりと憲法のことを忘れて、あろうことか戦後民主主義の「欺瞞性」を罵倒するようになった。その時の戦中派の落胆はいかばかりであっただろうか。
 でも、もう遅かった。私たちは「生まれついての憲法の申し子」であり、戦後民主主義が提供してくれる「果実」を食いたい放題に食うことは許されたけれども、憲法の精神を血肉化する義務があるとは教えられなかった。私たちにはもう「血肉化済み」だと思われていたのである。でも、そうではなかった。そして、何十年かして、私たちは改憲派に思い切り足をすくわれることになった。
 
 改憲派のアドバンテージはその一点に尽きる。
憲法制定過程に日本国民は関与していない。
これはGHQの作文だ。アメリカが日本を弱体化させるため仕掛けた戦略的なトラップだというのが改憲論を基礎づけるロジックだが、ここには一片の真実があることは認めざるを得ない。
 憲法制定過程に「超憲法的主体」であるGHQが深く関与したことが憲法の正当性を傷つけていると改憲派は言う。
一方、護憲派はGHQの関与については語ろうとしない。「日本国民が制定した」という物語にしがみついた。
 繰り返し言うが、憲法を制定するのは「憲法条文内部的に主権者と認定された主体」ではない。
憲法を制定するのは、歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者だ。それは大日本憲法も同じである。
 大日本帝国憲法において主権者は天皇である。
「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第一条に記してある。そして、その条項を起草したのも天皇自身であるということになっている。だから、大日本帝国憲法の「上諭」には「朕」は「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典を宣布ス」と明記してある。
 でも、別に憲法制定の「大権」が歴代天皇には認められていたなどということはない。勅諭や綸旨ならいくらでも出したが、「憲法」という概念自身が近代の産物なのであるから、憲法制定大権なる概念を明治天皇が「祖宗」に「承クル」はずがない。
実際に明治憲法を書いたのは伊藤博文ら元勲である。明治維新で徳川幕府を倒し、維新後の権力闘争に勝ち残った政治家たちがその「超憲法的実力」を恃んでこの憲法を制定したのである。やっていることはGHQと変わらない。
 憲法というのはもともと「そういうもの」なのだ。
圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体がそれを制定する。
それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」については、憲法のどこにも書かれていない。でも、書かれてなくても、知っている人は知っている。
 明治時代の人たちだって、憲法を起草したのが元勲たちで、それが近代国家としての「体面」を繕い、国際社会にフルメンバーとして加わり、欧米との不平等条約を改定するために必要だからということも知っていたはずである。
薩長のエリートたちによる支配を正当化し、恒久化するための政治的装置だということも知っていたはずである。
 日本国憲法だって同じである。
これもまた圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体によって制定された。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」は、憲法のどこにも書かれていない。「上諭」にも書かれていない。でも、知っている人は知っていた。
問題は、日本国憲法の場合は、制憲過程について「知っている人」たちがそれについて久しく口を噤んでいたことである。
 国民の多くが憲法を「ろくでもないもの」だと思い、一刻も早く改定すべきだと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろう。でも、戦中派の人たちはそう思わなかった。すばらしい憲法だと思っていた。だから、制定過程についてあれこれと語ることで、憲法のインテグリティーに傷をつけたくないと思った。たぶんそうなのだろうと思う。
 戦中派は善意でそうしたのだと思う。私はそれを疑わない。
彼らは戦後の日本社会を1945年8月15日以前と完全に切り離されたものとして、戦前と繋がる回路を遮断された「無菌状態」のものとして立ち上げようとした。だから、戦争の時に何があったのか、自分たちが何をしてきたかについて口を噤み、憲法制定過程についても語らなかった。
それを語るためには、日本には、主権者である「日本国民」のさらに上に日本国民に主権者の地位を「下賜」した超憲法的主体としてのアメリカがいるのだが、それは自分たちが戦争をして、負けたせいだからだという痛ましい真実を語らなければならない。子どもたちに言って聞かせるにはあまりにつらい事実だった。
 
 戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。
この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまったのだと私は思っている。
でも、私はそのことについて戦中派を責めるつもりはない。
私たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからだ。
 だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。
仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。
 歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じだ。
戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがない。それは、ドイツでもフランスでも同じだ。
 フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的だ。レジスタンスのことはいくらでも語るが、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。
フランスでヴィシーについての本格的な研究が出てきたのは、1980年代以降。それまではタブーだった。その時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからだ。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていた。そして、それを頭ごなしに責めることには抵抗があった。
 ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いている。
ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本だ。レヴィは戦後生まれのユダヤ人なので、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。しかし、出版当時、大論争を引き起こした。
 少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示した。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いた。
私はそれを読んで、アロンの言うことは筋が通らないが、「大人の言葉」だと思った。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくない。しかし、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。
アロン自身はユダヤ人で、自由フランス軍で戦ったのであるから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はない。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。
 80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれた。
しかし、ヴィシーの当事者たちは最後まで沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。
人間は弱いものだから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できるが、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかが隠蔽され、歴史修正主義者が登場してくる足場を作った。
戦争経験者の多くが死んだ後に、歴史修正主義者たちが現れて、平然と「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というようなことを言い出した。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらない。
 アルベール・カミュの逡巡もその適例である。
カミュは地下出版の 『戦闘』の主筆としてレジスタンスの戦いを牽引した。
ナチス占領下のフランスの知性的・倫理的な尊厳を保ったという点で、カミュの貢献は卓越したものだった。
だから、戦後対独協力者の処刑が始まった時、カミュも当然のようにそれを支持した。彼の仲間たちがレジスタンスの戦いの中で何人も殺されたし、カミュ自身も、ゲシュタポに逮捕されたらすぐに処刑されるような危険な任務を遂行していたのである。カミュには対独協力者を許すロジックはない。
しかし、筋金入りの対独協力者だったロベール・ブラジャックの助命嘆願署名を求められた時、カミュは悩んだ末に助命嘆願書に署名する。ブラジャックの非行はたしかに許し難い。けれども、もうナチスもヴィシーも倒れた。今の彼らは無力だ。彼らはもうカミュを殺すことができない。自分を殺すことができない者に権力の手を借りて報復することに自分は賛同できない。カミュはそう考えた。
 このロジックはわかり易いものではない。
対独協力者の処刑を望むことの方が政治的には正しいのだ。
だが、カミュはそこに「いやな感じ」を覚えた。どうして「いやな感じ」がするのか、それを理論的に語ることはできないが、「いやなものはいやだ」というのがカミュの言い分だった。
 身体的な違和感に基づいて人は政治的な判断を下すことは許されるのかというのは、のちに『反抗的人間』の主題となるが、アルベール・カミュとレイモン・アロンは期せずして、「正義が正義であり過ぎることは人間的ではない」という分かりにくい主張をなしたのである。
 レジスタンスは初期の時点では、ほんとうにわずかなフランス人しか参加していなかった。地下活動という性格上、どこで誰が何をしたのかについて詳細な文書が残っていないが、1942年時点でレジスタンスの活動家は数千人だったと言われている。それが、パリ解放の時には何十万人にも膨れ上がっていた。
44年の6月に連合軍がノルマンディーに上陸して、戦争の帰趨が決してから、それまでヴィシー政府の周りにたむろしていたナショナリストたちが雪崩打つようにレジスタンスの隊列に駆け込んできたからだ。その「にわか」レジスタンたちが戦後大きな顔をして「私は祖国のためにドイツと戦った」と言い出した。
そのことをカミュは苦々しい筆致で回想している。
最もよく戦った者はおのれの功績を誇ることもなく、無言のまま死に、あるいは市民生活に戻っていった、と。
『ペスト』にはカミュのその屈託が書き込まれている。
医師リウーとその友人のタルーはペストと戦うために「保健隊」というものを組織する。この保健隊は明らかにレジスタンスの比喩である。隊員たちは命がけのこの任務を市民としての当然の義務として、さりげなく、粛々として果たす。英雄的なことをしているという気負いはないのだ。
保健隊のメンバーの一人であるグランはペストの災禍が過ぎ去ると、再び、以前と変わらない平凡な小役人としての日常生活に戻り、ペストの話も保健隊の話ももう口にしなくなる。
カミュはこの凡庸な人物のうちにレジスタンス闘士の理想のかたちを見出したようだ。
 フランスにおける歴史の修正はすでに1944年から始まった。それはヴィシーの対独協力政策を支持していた人々が、ドイツの敗色が濃厚になってからレジスタンスに合流して、「愛国者」として戦後を迎えるという「経歴ロンダリング」というかたちで始まった。それを正面切って批判するということをカミュは自制した。
彼自身の地下活動での功績を誇ることを自制するのと同じ節度を以て、他人の功績の詐称を咎めることも自制した。
他人を「えせレジスタンス」と批判するためには、自分が「真正のレジスタンス」であることをことさらに言い立てて、彼我の差別化を図らなければならない。
それはカミュの倫理観にまったくなじまないふるまいだった。
ナチス占領下のフランスで、ヴィシー政府にかかわったフランス人たちがどれほど卑劣なふるまいをしたのかというようなことをことさらに言挙げすることを戦後は控えた。カミュは「大人」であったから。
 各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあった。
彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことが歴史修正主義の興隆にいくぶんかは与っている。
「大人」たちは、歴史的な事実をすべて詳らかにするには及ばないというふうに考えた。誇るべき過去であっても、恥ずべき過去であっても、そのすべてを開示するには及ばない。誇るべきことは自尊心というかたちで心の中にしまっておけばいいし、恥ずべき過去は一人で深く恥じ入ればいい。ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。
「大人」たちは、勝敗の帰趨が決まったあとに、敗者をいたぶるようなことはしない。
対独協力者たちを同胞として改めて迎え入れようとした。
人間的にはみごとなふるまいだと思うが、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。私にはそんなふうに思える。
 
 似たことが日本でもあった。
それは戦中派の「大人たち」の私たち戦後世代に対する気づかいというかたちで現れた。
憲法は自分たちで制定したものではない。日本国民なるものは空語であるということを彼らは知っていた。
でも、自分たちに与えられた憲法は望外に「よきもの」であった。だったら、黙ってそれを受け容れたらよい。それを「日本国民が制定した」という物語に仕立て上げたいというのなら、あえて異論を立てるに及ばない。それは戦後世代の子どもたちに「親たちや先生たちがこの憲法を制定したのだ」というはなはだしい誤解を扶植することだったけれども、彼らはそのような誤解をあえて解こうとはしなかった。
 彼らのこの生々しい願いが憲法の堅牢性を担保していた。そして、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、私たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。
 
 改憲派が強くて、護憲派が弱いという現実を生み出した歴史的背景はこのためだと思う。
この事実がなかなか前景化しなかったのは、それが「起きなかったこと」だからだ。
戦争における無数の加害事実・非人間的事実について明らかにする、憲法制定過程についてその全容を明らかにするということを怠ったという「不作為」が歴史修正主義者や改憲派が今こうして政治的勢いを有している理由なのである。
「何かをしなかったこと」「何かが起きなかったこと」が原因で現実が変わった。
歴史家は「起きたこと」「現実化したこと」を組み立てて、その因果関係について仮説を立てて歴史的事象を説明するのが仕事であるが、「起きなかったこと」を歴史的事象の「原因」として論じるということはふつうしない。
 でも、もし戦中派が戦争責任をきびしく追及し、彼らの加害事実を告白し、さらに憲法が勝者に「下賜」されたものであることを認めた上で「日本国民などというものは今ここには存在しない。これから創り出すのだ」と宣言した場合、戦後の日本社会はどのようなものになっていただろうか。
戦中派の人たちはそのタスクの重さに、ずいぶん苦しんだだろう。そして、私たちの世代は、そのような親たちの世代に対して、嫌悪や軽蔑を感じたかも知れない。
戦中派は人間はそれほどきびしい苦役に長くは耐えられないという常識的な人間理解に基づいて、「子どもたちには何も言わない」道を選んだ。
 
 護憲派はこの常識と抑制の産物である。だから、非常識と激情に弱い。
 護憲運動を1950年代や60年代と同じように進めることはもうできないと思う。当時の護憲運動の主体は戦中派だったからだ。彼らはリアルな生身を持っていた。
「空語としての憲法」に自分たちの願望と子どもたちの未来を託すというはっきりした自覚を持っていた。
でも、私たちは違う。
私たちは「自然物としての憲法」をぼんやりと豊かに享受し、それに敬意を示すこともなくさんざん利用し尽くしたのちに、ある日「お前たちが信じているものは人工物だ」と言われて仰天している「年取った子ども」に過ぎない。
 これから私らが進めるべき護憲運動とはどういうものになるのか。これはとにかく「護憲運動の劣勢」という痛苦な現実を受け入れるところから始めるしかない。
われわれの憲法は脆弱であることを認めるしかない。
そして、その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であっても、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する以外にないのだと腹をくくる。
憲法条文がどんなに整合的であっても、どんなに綱領的に正しいものであっても、そのことだけでは憲法というのは自立できない。
正しいだけでは自存できない。絶えずその文言に自分の生身で「信用供与」をする主体の関与がなければ、どんな憲法も宣言も死文に過ぎない。
 死文に命を与えるのはわれわれの涙と血と汗である。
そういう「ヴァイタルなもの」によって不断にエネルギーを備給していかなければ、憲法は生き続けられない。
でも、護憲派はそういう言葉づかいでは語らない。護憲派は、憲法はそれ自体では空語だということを認めようとしない。
でも、憲法に実質をあらしめようと望むなら、身銭を切って憲法に生命を吹き込まなければならない。そうしないと、憲法はいずれ枯死する。私はその危機を感じる。
だから、護憲の運動にリアリティーをもたらすためには、この憲法は本質的には空語なのだということを認めなければならないと思う。
戦中派はこの憲法が空語であることを知っていた。けれども、口にはしなかった。でも、知っていた。
私たちは、この憲法が空語だということを知らずにきた。
そして、身銭を切って、この憲法のリアリティーを債務保証してくれていた人たちがいなくなってはじめて、そのことを知らされた。
 それを認めることはつらいと思う。でも、私は認める。
歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、私はぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとナイーブにも信じていた。
でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、私たちの失敗である。それを認めなければいけない。
だから、もう一度戦中派の常識と抑制が始まったところまで時計の針を戻して、護憲の運動をはじめから作り直さなければならないと思う。戦中派がしたように、今度は私たちが身銭を切って憲法の「債務保証」をしなければならない。これが護憲についての私の基本的なスタンスである。

貧しいのは心か、経済か、、、2021年11月08日 15:36

初冬の空
立冬を過ぎ、気温は20度前後、鳥たちがにぎやかな初冬の昼。
とても心地よい時間です。
こういう、静かで過ごしやすい気候のときが、いつも続いてくれたら良いのに、、
と思います。穏やかで変わらない日常。これが私ののぞみです。

 在職中は、職員に対し、「平等」を特に意識しました。 
なぜか、「皆同じ」というところで、仕事に対するモチベーションが上がります。
今思えば「同調圧力」だったかもしれません。
「同じ』を求める人は「損すること」を極端に嫌いました。
いつも「被害妄想じゃないか」と思うくらい、自分の不運や損をイメージしている人が多かったし、その不平等を直してくれることを期待して文句を言ってきました。

おもしろい記事を読み、なるほど、随分前からこういう傾向の人がいて、今に日本の主流になっているらしいと思い、ちょっと残念な気もしました。
「データの時間」より)

“日本人は特にいじわる”とデータが証明?
行動経済学が明かす「スパイト行動」
更新:2021.10.31 公開:2021.10.29

──相手に出し抜かれるくらいなら、自分が損してでもダメージを与えたい。
あなたはこのような気持ちを抱いたことはありますか?

”日本人は上記のような意地悪な行動を選びやすい”と示すデータが、1990年代、日米の経済学研究者によって行われた実験で取得されました。このような行動は英語で悪意、いじわるなどを意味する単語、spite(スパイト)を用いて「スパイト(いじわる)行動」と名づけられています。

スパイト行動は具体的にどのような行動で、なぜ起こるのでしょうか? 本記事ではその詳細を、わかりやすくご紹介します!

「スパイト行動」とは“自分が損をしてでも相手を出し抜く”こと
日本人は顕著に“いじわる”を選びやすい
なぜスパイト行動は起こるのか?
終わりに
「スパイト行動」とは“自分が損をしてでも相手を出し抜く”こと
早速ですが、ゲームをしましょう!

ペアになって2人で対戦するゲームです。あなたも相手も10ドルずつ所持しており、そこから0~10ドルまでの間で、任意でお金を出し合います。そうすると、「出した金額×1.5」分のお金をあなたも相手も等しく受け取ることができます。例えばあなたが10ドル、相手も10ドル出せば最終的に手元に残る金額は(あなた:30ドル、相手:30ドル)となります。あなたが0ドル、相手が10ドルならば、結果は(あなた:25ドル、相手:15ドル)、あなたが0ドル、相手が0ドルならば、結果は(あなた:10ドル、相手:10ドル)です。ゲームは10回×2セット行われます。

上記のゲームをプレイする場合、最終的な金額を増やすために最適な戦略は相手がいくら出そうが10ドル出すというものです。しかし、1991年に筑波大学で社会工学を研究していた西條辰義、中村英樹らが行った実験では、“あえて0~9ドルを選択する”被験者が観られたのです。

なぜ、得られる金額が少なくなることが分かっていながら、お金を出さないことが選択されたのでしょうか?

──それは、相手を出し抜くことができるからです。自分が得するよりも、ダメージを追って相手を上回ることを選んだのです。相手を気にせずマックスのお金を出すか、相手に打ち勝つために出さないことを選ぶかの間で心が揺れ動くことを研究チームは「スパイト・ディレンマ」と名づけました。

日本人は顕著に“いじわる”を選びやすい

スパイト行動を発見した西條教授たちは続いて、異なる文化圏でスパイト行動の割合は変化するのかを調査することに着手しました。

そうして実施されたのが、1997年にティモシー・ケイソン、西條辰義、大和毅彦、横谷好らにより論文として発表された実験です。同様のゲームを日本の筑波大学と都立大学、アメリカの南カリフォルニア大学(USC)とパーデュー大学で実施し、その結果を比較しました。

この実験では金額を拠出する前にまず投資への「参加/不参加」を選び、それを表明するというルールも追加されました。こうすることで、相手が不参加で、自分が参加となった場合、参加者は自分の拠出する金額を抑えることで相手のリターンを削れるというまた別のスパイト行動が見られるようになります。

そこで得られたのが“日本人の方がアメリカ人に比べて顕著にスパイト行動を選びやすい”とうデータです。
最初の5回までで、自分がひとりだけお金を出すことになったとき、参加者がほかの不参加者の利益を下げるためスパイト行動を選んだ(先の例の場合9ドル以下の投資額を選んだ)割合はUSCでは12%なのに対し、筑波大学では63%でした。
同じ傾向は都立大学/パーデュー大学の間でも見られたといいます。
その後の実験でカナダ人や中国人など他国と比較しても日本人は顕著にスパイト行動を選ぶ人の割合がおおいことが明らかになりました。

なぜスパイト行動は起こるのか?


なぜ、日本人はスパイト行動に走るのかについてのヒントも先のケイソン、西條らによる実験では得られました。

ゲームに参加する人の割合は、USCの事例では15回繰り返されたゲームを通し、安定して68%前後を推移しました。
これは、ナッシュ均衡(全員が最適な戦略を取った場合に落ち着く状態。定式化したノーベル経済学者ジョン・ナッシュの名前を取って名づけられた)を考慮し、事前に計算されたESS(Evolutionarily Stable Strategy:進化的に安定な戦略)とほぼ一致します。

一方、筑波大学の場合は最初は40%程度に過ぎなかった参加率が上昇を続け、13回目以降は80%を超えました。この結果を受けて研究チームは“スパイト行動が参加の強制につながっている”と推察しました。

ゲームの参加者がスパイト行動を取ることで、不参加者が得られるはずだった金額は目減りします。それが続けば「自分もお金を出した方が結果として得られる金額は増えるんじゃ……」という考えが浮かびます。そうして参加者がどんどん増えていったという流れが筑波大学のデータから読み解けるのです。

もともとスパイト行動の実験は公共財への支出を想定して実施されました。例えばある市でみんなでお金を出し合って橋を建てるとします。罰則がなく、橋も問題なく使えるとなればお金を出さず、公共財にフリーライド(ただ乗り)する人は出てくるでしょう。しかし、お金を出さない人が多ければ、他の人も支出を出し渋り、結果としてボロボロで安全性が危ぶまれる橋が建造されるとすればどうでしょうか?
フリーライドをもくろんでいた人も仕方なくお金を出すことになるでしょう。

このように“スパイト行動”はある種の同調圧力として機能し、結果として平等な負担を実現するのです。
よく“日本人は協調性が高い”といわれますが、それはこのようなメカニズムが歴史を通じて受け継がれてきたからかもしれません。

“いじわる”が全体の平等につながるかもしれないというのは面白いポイントです。ただし、このような日本人の傾向が足の引っ張り合いを生み、イノベーションの抑制や経済の停滞につながっていると指摘する声もあります。

終わりに
感情によって不合理な選択肢を選ぶ人間の心理を考慮した行動経済学は、ビジネスにおいて近年注目が高まり続けているようです。
スパイト行動もその一種として取り入れられるはず。
例えば一部の職種だけがリモートワークを許されていることに不満が生じ、他職種のパフォーマンスが下がるといったケースが想定できます。

そこでいかにバランスを取り、全員に“平等感”を与えられるのか。

“スパイト行動”のマイナス面に対処しつつ、プラスの面を発揮できるような方法を、特に我々日本人は注意して模索するべきでしょう。

【参考資料】
・西條辰義『日本人は「いじわる」がお好き?!』|THE KEIZAI SEMINOR DECENBER 2005
・西條辰義『コロナゲームはタカハトゲーム?』|東京財団政策研究所
・西條辰義『日本人は「いじわる」がお好き!!』|大阪大学社会経済研究所
・中野信子,ヤマザキマリ『「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」足を引っぱりあう日本人脳』|現代ビジネス ・大和毅彦『救済実験におけるスパイト行動』酒井泰弘教授退職記念論文集(第357号)
・加谷珪一『日本経済、低迷の元凶は日本人の意地悪さか 大阪大学などの研究で判明』|NewsWeek日本版
・ナッシュ均衡(なっしゅきんこう)|野村證券
・西條 辰義,中村英樹『自発的寄付メカニズム実験におけるスパイト・ディレンマ』|三田学会雑誌

雨の日に読書 紙の本の乱読メモ2021年11月09日 14:31

 昨夜から雨が降り続いていますが、そんなに寒くないので、冬の雰囲気ではありません。
ラジオを流しながら、あれこれ読みふけって幸せな時間を過ごします。
乱読なので、備忘録を残しています。几帳面ではないので、むしろいい加減なので、書き留めないうちに友人に送ってしまうこともしばしば。コロナ以降、私が読んだ本を読んでくれる友人ができ、せせと送りつけて身の回りの本を減らしています。
最近は、スマホで読んだりするのですが、紙の本以外はメモをとる気がしません。画面に出てくるという安心感なのでしょうか。

 叙述トリック短編集 似鳥 鶏  講談社タイガ 780円  
                    2021年4月15日
カバーと帯にまで トリックが 。
表紙絵のセリフには「この短編集は全ての短編に叙述トリックが含まれています。騙されないよう気をつけてお読みください」
また 《超絶技巧の騙し本ミステリー 本書は帯にも仕掛けがあります》
ここまで書かれて は、つい読みたくなります ね。
目次を見ると
読者への挑戦状
ちゃんと流す神様
背中合わせの恋人
閉じられた3人と2人
なんとなく買った本の結末
貧乏荘の怪事件
日本を背負うこけし
あとがき
と続き 挑戦状でもあとがきでも親切丁寧にトリックが説明されます。
それで必ずもう一度読みたくなります。
一冊の中で細かく丁寧に読む人を騙そうと 工夫してある一冊 で、あらすじを語ることも できかねます。デビューして15年間で。本格ミステリーや 青春小説など 面白い作品を 書き続けている作者の細かい工夫努力が偲ばれて 、次は何だろうと 待ち構える気分です。

 いらっしゃいませ 下町和菓子栗丸堂 四 
        平安京の和菓子の検非違使 
  似鶏航一   メディアワークス文庫 650円  2021年9月25日
 栗丸堂 のシリーズでは9冊目になります 。作者は 似鳥鶏 と 紛らわしいですが、別人で詳細は 不明です。
浅草の下町にある 和菓子屋さん、栗丸堂の店主 栗田仁は、生粋の 下町っ子で元不良 です。でも和菓子作りの腕は確か。長い黒髪美人「 和菓子のお嬢様 」こと有名和菓子舗 赤坂鳳凰堂の お嬢様 で鳳城 葵が恋人です。葵の味覚と和菓子の知識が並外れていて、仁と組むと無敵だと思えます。人の真っ直ぐな人の良いところと、葵の悪気のない天真爛漫な発言が笑えてしまいます。和菓子職人日本一を決める大会予選勝ち抜きと、京都日帰り探偵旅行。今回は、平安京の和菓子の検非違使 こと、京都の老舗和菓子舗 常盤屋良房の次男藤原薫が二人のおじゃま虫、兼 大会の好敵手としてあらわれる。薫の兄の幸臣は、葵の父親が娘の婿にと望んでいる立派な社会人。恋の成就のためにもいっそう頑張る仁だった。応援したい成り行きです。

 海の見える家 逆風  はらだみずき  シリーズ3巻
          小学館文庫 640円 2021年9月12日
 父が残した千葉県南房総の海が見える家で暮らしている緒方文哉は、 なんとか地域に根ざして自給自足的な生活を目指そうとして 便利屋の 和海と 農業の先生としての幸吉に教えを乞う。
気難しい幸吉とのコミュニケーションを保ちつつ 日々働いている。 このまま 順調に 行けるかと思った矢先に 大型台風が直撃し 、古い家は壊れ 電気も途絶え 管理していた別荘地も被害甚大で、生活は一変してしまう。
改めて 自然の中で 生きていくことの 大変さと これからどうやって食べていくのかに 悩む ことになった。
「 食って行く」 と言う言語への思いは、 やってきた大学の知人 都倉との考えの違いで際立つ。都倉が「こんな田舎で食っていけるのか 」という時 、それはお金を稼ぐ 。稼いだお金で 良い家に住みよい生活をする。 という意味だ 。
しかし文哉が「 食って行く 」と 言う時、それは 体を使い陸稲を育て、雨風に気を使いながら収穫して炊いて食べること、 びわや稲の畑を荒らすイノシシに罠をかけ、 それを殺して 解体しその肉を食べること に、他ならない 。
文哉は この戸倉との話し合いの中で 自分のこれからを決めた。
今回は 師である 幸吉が 倒れたところで 終わったが 、文哉が この地で 本格的に農業を 続け 自給自足で 食っていく様子を 次作に 期待する。
陸稲の育て方、イノシシのとり方、名産のびわ作り、別荘地の修繕、、
お金は必要だが、お金があってもどうにもならないことが多い田舎の暮らし。都会との違いを改めて感じます。また、高齢化にも関わらず、農地法が旧態然として他者の参入を拒否していることには驚きました。私も農家育ちで、両親が日の出前から夜まで、お雇い人を泊まらせながら、重労働をしていたことを知っています。いくらかの体験もあるので、毎年の台風、大水、日照りの夏など、人の力ではどうにもならない自然との折り合いの付け方に、人として自然の前には謙虚になることを知っています。現代人は忘れがちかもしれませんが、まだ、人は自然災害の前には無力です。


 最後の晩ごはん  後輩とあんかけ焼きそば   椹野道流
             角川文庫 600円 2021年 7月25日
海里の後輩の俳優 李英、やっと所属事務所が決まりこれから俳優デビュー と喜んだのも束の間、李英は瀕死の有様で入院。肝心なときに助けられなかったと悔やむ海里、
メガネの付喪神ロイドとの協力で、李英の霊体と会い、李英の本心を探る海里。
ますます不思議の世界ですが、友情と互いの思いやりの気持ちにほろりときます。いつも、がんばる若い人たち、素直な、真っ直ぐな生き方をする彼らに感動して、応援したくなる作品。押しのアイドルがいる人はこんな感じかな?
売れてほしいのと、あまり早く高名になってしまうと、実力と人気のギャップで苦しまないか、などと、ファンか親かのような気分で読めます。

 京都寺町三条のホームズ・ 17 
見習いキュレーターの 健闘と迷いの霧 (後編) 望月麻衣
双葉文庫  640円 2021年8月8日
 長いシリーズです。新作が出るとつい続きを読みたくなってしまいます。
家頭清隆 鑑定眼と観察眼の力で京都のホームズと呼ばれる。骨董店「蔵」を受け継ぐ人。葵が好きでたまらない様子が微笑ましい。ちょっと浮き世離れしているため、悩み方も変わっていると思う。
真城葵 京都府立大学生 。骨董店「蔵」でバイト。清貴の指南の元鑑定士として 修業中。才能がありそう。今回、清隆との恋も順調。相思相愛。
円生  本名菅原真也。元贋作師で清隆の宿敵。今は高名な鑑定士の下で見習い修行中。
葵の発案で開催される運びとなった自分の個展に難色を示す。
滝山利休 清貴の弟分。清貴に心酔する。今回個展のために力を貸す。
家頭誠司 「 蔵」のオーナー。清隆の祖父。国選鑑定人。
滝山好江  利休の母。 オーナーの恋人。 一級建築士。 美術関係の会社経営
家頭武史   清貴の父。人気時代小説作家 。「蔵」の店長
今回暗躍したのは風雅こと平雅風太。清隆は14歳(中3)のとき、風太と知り合い、その絵を気に入って購入したことがある。兄弟のように仲の良い関係を持っていたが 彼は 絵を描くことに行き詰まり薬に手を出した 。清貴のところの骨董を売っては 薬を買うようになった 。とうとう清貴は通報し、風雅 は検挙 され、 その後絵を描くことをやめてしまった。これらの恨みから円生に悪いことを吹き込んだのだった。今回は説明の多い回でしたが清貴と葵の恋が 順調でまずまず の出来栄え。

 認知症介護ラプソディ  
 笑って学ぶ 認知症介護が楽になる40の知恵
  保健師 速水ユウ 
    メディカルパブリッシャー 1180円  2016年9月28日
 作者がまえがきで 「〜 ここ数年、大学の看護学部で老年看護を教え、介護老人保健施設で実習指導をしながら認知症への理解を深めてきました。そんな中 同居していた祖母がアルツハイマー型認知症と診断され、認知症について考える時間が私生活でも増えました」と書いています。
 私が、地域で会った高齢者 、認知症のグループホームで会った方方、 特養での認知症の 高齢者を思い浮かべます。
述べ何百人もの方に、 様々な場所で出会ってきました。
私が認知症を学んだのは座学の介護研修と、実習、役所の講座や地域会議のなかでしたが、仕事の中で出会う多くの方から、 認知症という病気の 個性豊かなところに 気づきました。
対応には、その方の生育歴と家族関係、仕事、住まいなどを知るようにしました。
認知症の 原因病態、周辺症状のあれこれ、 必要な薬剤 、対応の仕方 、、基本的なことに色々な学びがありましたが、 私たち一人ひとりが違うように 認知症の方一人一人に それぞれの対応法があることを実感します。
やっぱり、人はそれまで生きてきたように 老いて いきます。
その人の性格、悲観的であったり、意地悪であったり、短気だったり、 優しかったり、 そういうところが 80年、90年生きるうちに、傍目を気にせず 現れてくるものだと 思います。

 人の性格は 持って生まれたものだと思います。
2,3歳の幼児でも その性格は 見て取れるのではないでしょうか 。子供だからといって 性格まで変えることは できませんね。
人生最後のところで その基礎の性格が 出てくるのだなぁと 感じます。
この本では 初めて家族が 認知症になった時に、とまどう家族に 役立つ知識が 書いてあります。 作者が悩みつつ、試行錯誤している様子からも学ぶことができます。
 認知症の方にとって長年 の付き合いのある 家族・友人の変わらぬ 対応こそが 一番の治療です 。すぐ忘れるので 今更 、生き方を教え直すことはできません。
物盗られ妄想など、本人の発する言葉に右往左往したり、怒ったり、教えたりはよくありません。
小さな子供や 赤ちゃんに対応するように、 周りが走り回る必要はありますが 、本人のこれまでの人生を否定することなく、人として 愛して接することが 必要です。

寂聴さん 覚書2021年11月12日 12:32

澄み渡る秋空
 「愛する人と2人、窓の外を見ると、雨が降ってきたとするでしょ。『ほら、いい雨ね』。
いつまでも、そう言えるのが愛よ」

 3日続きの秋空を見上げると涙が出そうになりました。
こういう人間関係を持てたら幸せだと思います。

99年の波乱の人生を生きた瀬戸内寂聴さんの記事を読みました。朝日デジタルの
「愛とは何か」記者の問いに寂聴さんは 
     ペン一本、書き続けた人生
       岡田匠 2021年11月12日 5時00分 より

〜15年に安保法制に反対して京都から国会前に行くと言いだしたのは抗議集会の2日前。死も覚悟した。「愛する人と別れること、愛する人が殺されること、それが戦争。命ある限り、戦争の恐ろしさを伝える」

〜僧侶としての務めだからと、コロナ禍の前まで数十年間、寂庵で法話を続けた。
東日本大震災など災害のたびに現地に飛び、天台宗の開祖・最澄の言葉「忘己利他(もうこりた)」を挙げた。
「己を忘れ他を利する。人を幸せにすることこそ、もっとも高尚」と説いた。

 聖書にも、己をを愛するように隣人をも愛せ、とマタイ・ルカ福音書にあります。
私は子や孫にも、このことを覚えてほしいと思っています。

今更ながら、この方の本は、10冊くらいしか読んでいないことが判明しました。
以下、膨大な著書の備忘録。《ウイキペディアから)

1960年代まで
『白い手袋の記憶』朋文社 1957 のち中公文庫
『花芯』三笠書房 1958 のち文春文庫、講談社文庫
『迷える女』小壺天書房、1959
『恋愛学校』東方社 1959 のち講談社文庫
『恋愛獲得講座』和同出版社 1959
『その終りから』浪速書房 1960
『愛の素顔 結婚生活のすべて』徳間書店 1961
『田村俊子』文藝春秋新社 1961 のち角川文庫、講談社文芸文庫
『夏の終り』新潮社 1963 のち文庫
『女徳』(高岡智照尼がモデル)新潮社 1963 のち文庫
『ブルーダイヤモンド』講談社、1963 のち文庫
『女優』新潮社 1964 のち文春文庫(嵯峨美智子がモデル)
『女の海』圭文館 1964 のち集英社文庫
『女箸』東方社 1964
『妬心』新潮社、1964 のち集英社文庫
『花野』文藝春秋、1964 のち文庫
『妻たち』新潮社 1965 のち文庫
『かの子撩乱』講談社 1965 のち文庫(岡本かの子)
(解説:上田三四二)
『輪舞』講談社 1965 のち文庫
『道』文化服装学院出版局 1965
『愛にはじまる』中央公論社 1966 のち文庫
『瀬戸内晴美自選作品』全4巻 雪華社 1966-67
『美は乱調にあり』(大杉栄・伊藤野枝)文藝春秋 1966
 のち角川文庫、文春文庫
『美少年』東方小説選書 1966
『煩悩夢幻』(和泉式部)新潮社 1966
『朝な朝な』講談社 1966 のち文春文庫
『誘惑者』講談社 1966
『瀬戸内晴美傑作シリーズ』全5巻 講談社 1967
『鬼の栖』(本郷菊富士ホテル)河出書房 1967
 のち角川文庫
『黄金の鋲』新潮社 1967 のち角川文庫
『燃えながら』講談社、1967 のち文庫
『死せる湖』文藝春秋、1967 のち文庫
『一筋の道』文藝春秋、1967 のち集英社文庫
『火の蛇』講談社、1967
『愛の倫理』(エッセイ)青春出版社 1968 のち角川文庫
『祇園女御』講談社 1968 のち文庫
『彼女の夫たち』講談社 1968 のち文庫
『あなたにだけ』サンケイ新聞社出版局 1968
 のち文春文庫
『情婦たち』新潮社、1968
『夜の会話』文芸春秋 1968 のち文庫
『妻と女の間』毎日新聞社 1969 のち新潮文庫
『お蝶夫人 小説三浦環』講談社 1969 のち文庫
『蘭を焼く』講談社 1969 のち文庫(解説:亀井秀雄)、文芸文庫
『嫉妬やつれ』講談社 ロマン・ブックス 1969
『情事の配当』講談社 ロマン・ブックス 1969
『転落の歌』講談社 ロマン・ブックス 1969
『不貞な貞女』講談社 ロマン・ブックス 1969
『身がわりの夜』講談社 ロマン・ブックス 1969
『奈落に踊る』文芸春秋 1969 「奈落」文庫
1970年代
『遠い声』(管野スガ)新潮社 1970 のち文庫
『恋川』(桐竹紋十郎)毎日新聞社 1971 のち角川文庫
『純愛』講談社 1971 のち文庫
『ゆきてかえらぬ』文藝春秋 1971 のち文庫
『輪環』文藝春秋 1971 のち文庫(解説:亀井秀雄)
『おだやかな部屋』河出書房新社、1971 のち集英社文庫
『薔薇館』講談社、1971 のち文庫
『余白の春』(金子文子)中央公論社 1972 のち文庫
『瀬戸内晴美作品集』全8巻 筑摩書房 1972-73
『京まんだら』講談社 1972 のち文庫
『美女伝』講談社、1972 のち集英社文庫
『みじかい旅』文藝春秋、1972 のち文庫
『放浪について』講談社、1972 のち文庫
『瀬戸内晴美長編選集』全13巻 講談社 1973-74
『中世炎上』(後深草院二条)朝日新聞社 1973 のち新潮文庫
『ひとりでも生きられる いのちを愛にかけようとするとき』
(エッセイ)青春出版社 1973 のち集英社文庫
『いずこより』(自伝小説)筑摩書房 1974 のち新潮文庫
『平凡社ギャラリー 文楽』1973
『色徳』新潮社 1974 のち文庫
『吊橋のある駅』河出書房新社、1974 のち集英社文庫
『抱擁』文藝春秋、1974 のち文庫
『見知らぬ人へ』創樹社、1974 のち集英社文庫
『終りの旅』平凡社、1974
『談談談』大和書房 1974 のち集英社文庫
『瀬戸内晴美随筆選集』全6巻 河出書房新社 1975
『見出される時』創樹社、1975 のち集英社文庫
『戯曲かの子撩乱』冬樹社 1975
『山河漂泊』河出書房新社、1975 「涯しない旅」集英社文庫
『遠い風近い風』朝日新聞社、1975 のち文春文庫
『蜜と毒』講談社 ロマン・ブックス 1975 のち文庫
『幻花』河出書房新社、1976 のち集英社文庫
『冬の樹』中央公論社、1976 のち文庫
『嵯峨野より』講談社 1977 のち文庫
『かの子撩乱その後』冬樹社 1978 のち講談社文庫
『まどう』新潮社 1978 のち文庫
『草宴』講談社 1978 のち文庫
『祇園の男』文藝春秋、1978 のち文庫
『比叡』(純文学書き下ろし特別作品)新潮社 1979 のち文庫
『花火』作品社、1979 のち新潮文庫
『有縁の人』創林社、1979 のち新潮文庫
『風のたより』海竜社、1979 のち新潮文庫
『古都旅情』平凡社、1979 のち新潮文庫
『女たち』文春文庫、1979 のち集英社文庫
1980年代
『嵯峨野日記』(随筆)新潮社 1980 のち文庫
『花情』文藝春秋、1980 のち文庫
『こころ』講談社、1980 のち文庫
『小さい僧の物語 地蔵説話』寂聴 
 秋野不矩絵 平凡社名作文庫 1980 のち集英社文庫
『幸福』講談社、1980 のち文庫
『寂庵浄福』文化出版局、1980 のち集英社文庫
『続瀬戸内晴美長編選集』全5巻 講談社 1981-82
(以後、晴美名義と寂聴名義が混在)

『ブッダと女の物語』寂聴 講談社 1981 のち文庫
『瀬戸内晴美による瀬戸内晴美』試みの自画像 青銅社、1981
『伝教大師巡礼』寂聴 講談社 1981 のち文庫
『愛の時代』講談社 1982 のち文庫
『インド夢幻』晴美 朝日新聞社 1982 のち文春文庫
『私の好きな古典の女たち』晴美 福武書店 1982 のち新潮文庫
『寂聴巡礼』平凡社、1982 のち集英社文庫
『いま、愛と自由を 寂聴塾からのメッセージ』
 集英社、1982 のち文庫
『生きるということ』集英社文庫、1983
『人なつかしき』晴美 筑摩書房 1983 のち文庫
『諧調は偽りなり』(「美は乱調にあり」続き)
 晴美 文藝春秋 1984 のち文庫
『ここ過ぎて 北原白秋と三人の妻』晴美 新潮社 1984 のち文庫
『印度・乾陀羅』講談社、1983 「美と愛の旅」文庫
『敦煌・西蔵・洛陽』講談社、1983 「美と愛の旅2」文庫
『愛と祈りを』小学館、1983 のち文庫
『すばらしき女たち 瀬戸内晴美対談集』中央公論社 1983
『青鞜』晴美 中央公論社 1984 のち文庫
『ぱんたらい』晴美 福武書店 1985 のち文庫
『花怨』講談社文庫、1985
『私小説』集英社、1985 のち文庫
『寂庵説法』講談社、1985 のち文庫
『瀬戸内寂聴紀行文集』全5巻 平凡社 1985-86
『幸福と不安のカクテル』大和書房、1986 
「幸福と不安と」新潮文庫
『寂庵だより』海竜社、1986 のち講談社文庫
『瀬戸内寂聴と男たち 瀬戸内寂聴対談集』
 中央公論社 1986 のち文庫
『風のない日々』新潮社、1986 のち文庫
『いのち華やぐ』講談社、1986 のち文庫
『私の京都小説の旅』海竜社、1987 のち新潮文庫
『愛と別れ 世界の小説のヒロインたち』講談社 1987 のち文庫
『愛の四季』角川書店、1988 のち文庫
『新寂庵説法 愛なくば』講談社、1988
『寂聴般若心経 生きるとは』中央公論社、1988 のち文庫
『女人源氏物語』全5巻 寂聴 小学館
 1988-89 のち集英社文庫
『家族物語』講談社、1988 のち文庫
『再会』講談社文庫、1989
『生死長夜』講談社 1989 のち文庫
『わたしの源氏物語』小学館、1989 のち集英社文庫
『寂聴写経のすすめ』法蔵館 1989
『寂聴天台寺好日』土井武撮影
 文化出版局 1989 のち講談社文庫
『寂庵こよみ』中央公論社、1989 のち文庫
『祈ること 出家する前のわたし』河出文庫、1989
『あふれるもの 瀬戸内寂聴自選短篇集』学芸書林 1989
『寂聴愛のたより』海竜社、1989 のち講談社文庫
『瀬戸内寂聴伝記小説集成』全4巻 文藝春秋 1989-90
1990年代
『わが性と生』瀬戸内寂聴、瀬戸内晴美 新潮社 1990 のち文庫
(以後寂聴で統一)

『愛すること 出家する前のわたし』河出文庫、1990
『書くこと 出家する前のわたし』河出文庫、1990
『寂聴観音経 愛とは』中央公論社、1990 のち文庫
『手毬』新潮社、1991 のち文庫
『寂聴つれづれ草子』朝日新聞社、1991 のち文庫
『生きるよろこび 寂聴随想』講談社、1991 のち文庫
『孤独を生ききる』光文社カッパホームズ、1991 のち文庫
『寂聴イラクをゆく 殺スナカレ殺サセルナカレ』
 芳賀明夫写真 スピーチバルーン、1991
『晴美と寂聴のすべて』集英社文庫、1991
『花に問え』(一遍)中央公論社、1992年、谷崎潤一郎賞 のち文庫
『あきらめない人生 寂聴茶話』小学館、1992 のち集英社文庫
『人が好き 私の履歴書』日本経済新聞社、1992 のち講談社文庫
『愛のまわりに』小学館、1992 のち集英社文庫
『渇く』日本放送出版協会 1993 のち講談社文庫
『源氏に愛された女たち』講談社+α文庫 1993
『寂庵まんだら』中央公論社 1993 のち文庫
『寂聴生きる知恵 法句経を読む』海竜社 1993 のち集英社文庫
『十人十色「源氏」はおもしろい 寂聴対談』
 小学館 1993 のち文庫
『愛死』講談社 1994 のち文庫
『歩く源氏物語』講談社 1994
『草筏』中央公論社 1994 のち文庫
『寂聴古寺巡礼』平凡社 1994 のち新潮文庫
『寂聴日めくり』中央公論社 1994 のち文庫
『与える愛に生きて 先達の教え』小学館 1995 のち文庫
『恋の旅路』稲越功一写真 朝日出版社 1995
『道堂々』日本放送出版協会 1995
『白道』(西行)講談社 1995 芸術選奨文部大臣賞 のち文庫
『いのち発見』講談社 1996 のち文庫
『寂聴草子』中央公論社 1996 のち文庫
『無常を生きる 寂聴随想』講談社 1996 のち文庫
『わたしの宇野千代』中央公論社 1996
『わたしの樋口一葉』小学館 1996
『生きた書いた愛した 対談・日本文学よもやま話』
 新潮社 1997 のち文庫
『源氏物語の女性たち』日本放送出版協会 NHKライブラリー 1997
『孤高の人』(湯浅芳子)筑摩書房 1997 のち文庫
『つれなかりせばなかなかに 妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤』
 (谷崎潤一郎・佐藤春夫)中央公論社 1997 のち文庫
『私の京都案内 小説の旅』講談社 1997
『源氏物語絵詞』石踊達哉絵 講談社 1998
『寂聴あおぞら説法』光文社 1998
『寂聴おしゃべり草子』中央公論社 1998
『寂聴ほとけ径 私の好きな寺』正続 
 マガジンハウス 1998 のち光文社知恵の森文庫
『わかれば『源氏』はおもしろい 寂聴対談集』
 講談社 1998 のち文庫
『あした見る夢』朝日新聞社 1999 のち文庫
『さよなら世紀末』中央公論新社 1999
『いよよ華やぐ』新潮社 1999 のち文庫
『寂聴今昔物語』中央公論新社 1999 のち文庫
2000年代
『髪』新潮社 2000 のち文庫
『源氏物語の脇役たち』岩波書店 2000
『寂聴美の宴』小学館 2000
『人生道しるべ 寂聴相談室』文化出版局 2000 のち講談社文庫
『痛快!寂聴仏教塾 グローバル・スタンダード』
 集英社インターナショナル 2000
『生きることば あなたへ』光文社 2001
『残されている希望』日本放送出版協会 2001
『場所』(自伝小説)新潮社 2001 のち文庫 野間文芸賞
『瀬戸内寂聴全集』全20巻 新潮社 2001-02(解説・秋山駿)
『いま、いい男 瀬戸内寂聴対談集』ぴあ 2002
『かきおき草子』新潮社 2002 のち文庫
『釈迦』新潮社 2002 のち文庫
『釈迦と女とこの世の苦』日本放送出版協会 2002 
 のちNHKライブラリー
『寂聴あおぞら説法 2』光文社 2002 のち文庫
『寂聴あおぞら説法 みちのく天台寺「四季巡礼」
  ビジュアル版』光文社 2002 のち文庫
『寂聴生きいき帖』祥伝社 2002 のち黄金文庫
『寂聴さんと巡る四国花遍路』文化出版局 2002
『寂聴仏教塾』集英社インターナショナル 2002 のち文庫
『瀬戸内寂聴の人生相談』日本放送出版協会 生活人新書 2002
『瀬戸内寂聴の新作能 蛇・夢浮橋』集英社 2003
『愛する能力』講談社 2004 のち文庫
『寂聴の古寺礼讃』永井吐無画 講談社 2004
『痛快!寂聴源氏塾』集英社インターナショナル 2004 のち文庫
『藤壺』講談社 2004 のち文庫
『炎凍る 樋口一葉の恋』小学館文庫 2004 のち岩波現代文庫
『真夜中の独りごと』新潮社 2004 のち文庫
『生きる智慧死ぬ智慧』新潮社 2005
『命のことば』講談社 2005
『美しいお経』嶋中書店 2005
『おとなの教養古典の女たち』海竜社 2005 
 のち光文社知恵の森文庫
『五十からでも遅くない』海竜社 2005 のち光文社知恵の森文庫
『寂聴あおぞら説法 3』光文社 2005 のち文庫
『寂聴人は愛なしでは生きられない』大和書房 2005
「寂聴愛を生きる」文庫
『おにぎり食べたお地蔵さん』祥伝社 2006
『寂聴と巡る京都』集英社インターナショナル 2006
『寂聴さんがゆく 瀬戸内寂聴の世界』伊藤千晴写真
 平凡社 コロナ・ブックス 2006
『9歳から99歳までの絵本般若心経』講談社 2007
『愛と救いの観音経』中央公論新社 2007 のち文庫
『生きることは愛すること 愛する若いあなたへ』
 講談社 2007 のち文庫
『美しいお経』中央公論新社 2007 のち文庫
『おばあさんの馬』小林豊絵 講談社 寂聴おはなし絵本 2007
『瀬戸内寂聴紀行文集』全6冊 平凡社ライブラリー 2007-09
『幸せさがし』はたこうしろう絵 講談社 寂聴おはなし絵本2007
『寂聴源氏塾』集英社インターナショナル 2007 のち文庫
『寂聴訳絵解き般若心経』横尾忠則画 朝日出版社 2007
『大切なひとへ 生きることば』光文社 2007 のち文庫
『月のうさぎ』岡村好文絵 講談社 寂聴おはなし絵本2007
『針つくりの花むこさん』たなか鮎子絵 講談社
 寂聴おはなし絵本 2007
『秘花』(世阿弥)新潮社 2007 のち文庫
『老春も愉し 続・晴美と寂聴のすべて』集英社 2007 のち文庫
『いま、釈迦のことば』朝日新聞出版 2008 のち文庫
『老いを照らす』朝日新書 2008 のち文庫
『奇縁まんだら』横尾忠則画 日本経済新聞出版社 2008 のち文庫
『源氏物語の男君たち』日本放送出版協会 2008
『源氏物語の女君たち』日本放送出版協会 2008
『寂聴あおぞら説法 4』光文社 2008 のち文庫
『寂聴と読む源氏物語』講談社 2008 のち文庫
『素顔の寂聴さん』斉藤ユーリ撮影 小学館 2008
『遺したい言葉』日本放送出版協会 2008
『あしたの虹』(ぱーぷる)毎日新聞社、2008
(別名義でのケータイ小説)
『生きることば あなたへ』光文社文庫 2009
『続・奇縁まんだら』日本経済新聞出版社 2009
『寂聴幸運の鍵』毎日新聞社 2009
『瀬戸内寂聴随筆選』全6巻 ゆまに書房 2009
『モラエス恋遍路』実業之日本社 2009
『わたしの蜻蛉日記』集英社 2009 のち文庫
2010年代
『奇縁まんだら 続の2』日本経済新聞出版社 2010 
『寂聴あおぞら説法フォト・コレクション20
 みちのく天台寺春夏編』光文社文庫 2010
『寂聴・生き方見本』扶桑社 2010
『寂聴辻説法』集英社インターナショナル 2010 のち文庫
『わくわくどきどき』1-4 日本音声保存 2010
『奇縁まんだら 終り』日本経済新聞出版社 2011
『風景』角川学芸出版 2011 のち文庫
『寂聴写経の力 生きる勇気が湧いてくる えんぴつと筆ペンではじめる写経練習帳』ベストセラーズ 2012
『月の輪草子』講談社 2012 のち文庫
『烈しい生と美しい死を』新潮社 2012 のち文庫
『道しるべ』15歳の寺子屋 講談社 2012
『明日は晴れ』光文社 2013
『切に生きる』扶桑社 2013
『それでも人は生きていく 冤罪・連合赤軍・オウム・反戦・反核』  皓星社 2013 
『やっぱり、嵯峨野に行こう』扶桑社 2013
『爛』新潮社 2013 のち文庫 
『お守り幸せ手帖』朝日出版社 2014
『死に支度』講談社 2014
『寂聴まんだら対談』講談社 2014
『あなたの人生を照らす瀬戸内寂聴希望のことば77
健康・夫婦・子育て・老い・人づきあい 完全保存版』
 中央公論新社 2015
『寂聴あおぞら説法 日にち薬 みちのく天台寺』光文社文庫 2015
『わかれ』新潮社 2015 のち文庫 
『老いも病も受け入れよう』新潮社 2016
『求愛』集英社 2016 のち文庫 
『ひとり 句集』深夜叢書社 2017
『わたしの好きな仏さまめぐり』マガジンハウス, 2017
『瀬戸内寂聴いのちよみがえるとき』(NHK出版DVD+BOOK) 2017
『生きてこそ』新潮新書 2017
『あなただけじゃないんです』自由国民社, 2017
『花のいのち』講談社, 2018
『寂聴九十七歳の遺言』(朝日新書 2019
『はい、さようなら。』光文社, 2019
『97歳の悩み相談』(17歳の特別教室)講談社, 2019
共著・編
『恐怖の裁判 徳島ラジオ商殺し事件』富士茂子共著 読売新聞社 1971
『カラー嵯峨野の魅力』竹村俊則共著 横山健蔵写真 淡交社 1977
『古寺巡礼京都 17 三千院』瀬戸内寂聴,水谷教章著 淡交社 1977
『古寺巡礼京都 21 清涼寺』瀬戸内寂聴,鵜飼光順著 淡交社 1978
『女の一生 人物近代女性史』全7巻 責任編集 講談社 1980-81 のち文庫
『古寺巡礼近江 4 三井寺』瀬戸内寂聴,福家俊明著 淡交社 1980
『愛のかたち』晴美選 日本ペンクラブ編 集英社文庫 1982
『名作のなかの女たち』前田愛、晴美共著 角川書店 1984 のち文庫、岩波同時代ライブラリー、岩波現代文庫
『愛の現代史 『婦人公論』手記の証言』全5巻 編 中央公論社 1984-85
『愛と命の淵に』寂聴、永田洋子 福武書店 1986 のち「往復書簡」として文庫
『仏教の事典 お釈迦さまから日常語まで』編著 三省堂 1985
『寂聴の仏教入門』久保田展弘共著 講談社、1988 のち文庫
『仏教・エロスと救い 瀬戸内寂聴vs.ひろさちや対談集』主婦の友社 1993 「仏教とエロス」学研M文庫
『寂聴・猛の強く生きる心』梅原猛共著 講談社 1994 のち文庫
『水墨画の巨匠 第2巻 雪村』雪村周継 林進共著 講談社 1995
『京の古寺から 別巻 寂庵』井上隆雄共著 淡交社 1996
『風のように炎のように 対談』五木寛之,加藤唐九郎共著 風媒社 1997
『文章修業』水上勉共著 岩波書店 1997 のち光文社知恵の森文庫
『人生万歳』永六輔共著 岩波書店 1998 のち新潮文庫
『幸せは急がないで 人生の岐路に立つあなたへ! 尼僧が語る「愛の法話」45編』青山俊董共編 光文社文庫 1999
『生と死の歳時記 美しく生きるためのヒント』齋藤愼爾共著 法研 1999 のち光文社知恵の森文庫
『日本復活』稲盛和夫,中坊公平共著 中央公論新社 1999
『寂聴×アラーキー 新世紀へのフォトーク』荒木経惟共著 新潮文庫 2000
『ニッポンが好きだから 女二人のうっぷん・はっぷん』櫻井よしこ共著 大和書房 2000 のち新潮文庫
『仏教ハンドブック』編 三省堂 2000
『いのちの対話 生き抜く「元気の素」をあなたに』中坊公平,安藤忠雄共著 光文社 カッパ・ブックス 2001
『いのち、生ききる』日野原重明共著 光文社 2002 のち文庫
『いま聞きたいいま話したい』山田詠美共著 中央公論新社 2002 「小説家の内緒話」文庫
『人生への恋文』石原慎太郎共著 世界文化社 2003 のち文春文庫
『No war! : ザ・反戦メッセージ』鶴見俊輔,いいだもも共編著 社会批評社 2003
『あの世この世』玄侑宗久共著 新潮社 2003 のち文庫
『寂聴中国再訪』平野啓一郎同行対談 日本放送出版協会 2003
『ぴんぽんぱんふたり話』美輪明宏共著 集英社 2003
『同時代を生きて―忘れえぬ人びと―』鶴見俊輔・ドナルド・キーン共著 岩波書店 2004
『千年の京から「憲法九条」 私たちの生きてきた時代』鶴見俊輔共著 かもがわ出版 2005
『また逢いましょう』宮崎奕保共著 朝日新聞社 2005 のち文庫
『私の夢俺の希望』義家弘介共著 PHP研究所 2005
『古寺巡礼京都 延暦寺』半田孝淳共著 淡交社 2007
『The寂聴』第1~12号 責任編集 角川学芸出版 カドカワムック 2008-10
『日本人なら「気品」を身につけなさい ボクらの時代』美輪明宏,平野啓一郎共著 扶桑社 2008
『瀬戸内寂聴に聞く寂聴文学史』尾崎真理子著 中央公論新社 2009
『不良のススメ』萩原健一共著 角川学芸出版 2009
『小説一途 ふたりの「源氏物語」』田辺聖子共著 角川学芸出版 2010
『生ききる。』梅原猛共著 角川ONEテーマ新書 2011
『利他 人は人のために生きる』稲盛和夫共著 小学館 2011 のち文庫
『その後とその前』さだまさし共著 幻冬舎 2012 のち文庫
『日本を、信じる』ドナルド・キーン共著 中央公論新社 2012 のち文庫
『若き日に薔薇を摘め』藤原新也共著 河出書房新社 2013
『〈対談〉寂聴詩歌伝』齋藤愼爾聞き手 本阿弥書店 2013
『死ぬってどういうことですか? 今を生きるための9の対論』堀江貴文共著 角川フォレスタ 2014 『生とは、死とは』角川新書
『瀬戸内寂聴×EXILE ATSUSHI』NHK『SWITCHインタビュー達人達』制作班,EXILE ATSUSHI共著 ぴあ 2014
『これからを生きるあなたに伝えたいこと』美輪明宏共著 マガジンハウス 2016.4.
『95歳まで生きるのは幸せですか?』池上彰との共著 PHP新書 2017年9月15日
翻訳

雨の一日、思い出す日々2021年11月22日 15:43

秋は紅葉ですね!
15年前の今頃は、ノロウイルス感染で事業所が大わらわ童でした。
この2年ほどの間に考えたことと変わりません。
2006年11月18日 には、くたびれてこう書いています。

いろんな事が起きた10日間でした。
感染性胃腸炎にすっかり侵されてしまいました。
このために、事業所は閉館。いろんな事業は全部中止と延期となりました。
デイサービスに感染したお客様がいらしたためです。
いつも大きなジレンマです。
介護に疲れたご家族にとってデイサービスにお年寄りを預けている間は、予定をこなせるわけですね。
保育園でもそうですが、なんとか子どもを預かってもらってその間に職場で仕事をしていられるわけです。
「熱が出ました、お迎えに来て下さい。」と言われる事態は、複雑ですよね。
一方、施設や他の利用者にすれば、感染源の排除は当然望まれることです。

友人に小学校も中学校も皆勤賞の子がいましたが、ものすごい咳をしながらも、けして休みませんでした。
一方では立派なことですが、クラスじゅうに、風邪やインフルエンザを移して、はた迷惑な主義の彼でした。実は彼の家には、お父さんしか居なかったので、休むわけにもいかなかったようでした。

その人自身を受け入れるのか、大勢の安全を守るのか、これはいつも、どんなときにも、難しい選択ですね。
自分がどんなになっても受け入れてもらえる場所は残しておいてほしい、と思うのですが。

10年前は、何も記録がありません。記憶もないのでやはり記録は大事だと思いました。

2011年12月04日は、快晴の気持ちよい一日です。娘と散歩がてらお買い物に、出ました。
12月11日は月食を見ました。

では、去年は?というと目が悪くて困り始めた頃です。
13日の金曜日 ― 2020年11月13日
 穏やかな一日。
左右の視力が極端に違ってきたらしく、外を歩くのがつらい。
人の顔もわからない。
困って近くの眼科医へ。

視力、視野、眼底、網膜、、、丁寧に、よく見ていただいたが、私の目は良いらしい。
実は母も95歳だが、今も裸眼で新聞も読む、白内障を手術しなさいと言われているが、もう高齢だからと拒否していると、言いつけたら、見え方に不自由がないならそれでよいといわれました。
では、私は?
今のところ眼鏡で治すには左右の違いがひどすぎる。
まあ、不自由でしょうが、今のままでよいでしょう。
来年検査に来るようにというご託宣を得た。
???の思いで帰宅。瞳孔の開いた目に、町はまぶしかった。

また、娘たちが GO TOで出かけたので、猫さんたちのお世話をしていました、

今年の11月は、50年来の友人の個展に行きました。
インフルエンザの予防接種もしましたし、母からの柿も楽しみました。コロナで自粛をし始めてから、一番動きがあった月かも知れません。
越し方を振り返り振り返り、雨の音を聞いています。